昭和48年6月4日 「地」という字について 御理解第45節
天地、地という字。これを一字頂きます。ですから、ひと、天地の地という字からどう言う事を、を学びとらせるって頂くというか。( )広げなんかということを頂きたいと思います。地という字。ね。地という字の御理解ですけれども、地という字は、土編に也という字が書いてあります。言わば、土、也と言うわけです。これは、天の恵みという。天恵ですかね、天の恵み。その天の恵みというのは、限りなくあっておる。それは、ふいようにあっておると言う。それを受け止めさせて頂くのが、地の心だと言われております。
ですからね、言うならば、もうおかげを頂くと言うのは、ここに極まっておるということですね。んなら、ここで、黙って治めるとか、ね、さんずい編、さんずいにム、口と書いて治める、ですから、黙って治める。これが最高だと思う。全ての事柄を有り難しと受けておる。いわゆる、御の字を付けて頂く。御事柄として受けていくというふうに言われますけど、今日は、私この、地という字からですね、辛抱という事。辛抱の力。辛抱の徳。
ですから、辛抱力を作るという事。辛抱力を作るという事が地の信心。40、御理解の45節に、三宝様は実るほどかがむ。実るほどかがむという事は、中身が出来てくるという事です。三宝様と、穀物の意とありますから、例えば、稲穂なら稲穂が実ってくればくるほどかがむ。その、実るという事はどういう事かというと、私は、辛抱力を作るということだと思う。もうたまらん、もうもてん、と言うまでは、まだ辛抱じゃない。そこを辛抱、そこを頂き貫くのが辛抱である。
そういう信心を私は、土、也、もうそれに、土の信心に極まった。今日は土の信心と言うのを、辛抱力というふうに。ね。昨日、鹿児島の大内教会の安田先生が、お参りをしてまいりました。ただ今御本部参拝の帰りでございます。言うて言いよりました。この度御本部参拝をさして頂いて、金光様にお届けをさして頂いたことは、金光様、もう辛抱しきれません。ね。もう御結界に座っとても有り難くもどうもありません。どうしても有り難くなりません。もう辛抱が出来ません。
ね。と言うて、あの、お届けをさしていたら、それで良いですと仰ったそうです。それでいいですということは、あの、有り難くならんでもここを辛抱していっておる内に有り難くなるのですという意味のことではなかろうかと思う。教主様のお歌を拝見しますと、ご自身がそこの所を一生懸命今取り組んでおられるところですから、もう、今日はきつかけんで、もう今日はやめよう。もう今日はきつかけんで他のもんに変わってもらおう。と言うことを、もうけしてなさっておられない。
ほんとに、毎日毎日のいわゆる、御神勤をなさって、言うなら、親金光様のように、ただ有り難うして有り難うして、お礼の足りないお詫びばかりしておりますと言うようなわけにはいかん。もう、年50ぐらいになってからの御神勤ですから。ね。親様が亡くなられてその後をお受けになられるというのが、言うならば、辛抱の稽古が出来ておんなさらん。言わば。そこで、親金光様が亡くなられた後をお継ぎにならねばならんから、そりゃ大変な事だと。勿論、有り難くも無い、もうほんとにきつか、辛いばっかりだろうけれどもです。
それで、それでいいです。ね。ということは、きつい時にゃあなたもう辞めなさいという意味じゃないと思うです。ね。そこんところをがんばって行くんだと。まだ、25・6でしょうか今が、安武先生が。ね。たった一人でお広前を守らして頂いておる。ご参拝もない。ね。それでもやはり、一生懸命の思いで修行さしてもらってますけれども、もう時には、もうほんとに投げてしまいたいような時がある。しかも、ひとっつも有り難くないとこう。だから、その事をそのまま金光様にお届けをさして頂いたわけですけれどもね。
そこんところが、私は、ね、辛抱しぬく。辛抱の力、辛抱の徳を受けるんだと。小倉の二代の教会長、いわゆる、桂先生の奥様です。ね。初代が早く亡くなりましたから、何十年でしょうかね。長い間教会長として御用されました。そういう、例えば、後を揺るがないごひれいを持ち続けられた力というのは、やはり、桂先生と一緒に道を開かれた自分の、もうたまらん、もう駄目だ、もう行けない。と言うような時に( 様の)二代金光様のおかげで、み教えを頂き頂きなさって、そこを辛抱しぬかれた、やはり力というものがあったから、その後何十年間の教会長としての使命を果たすくらいなことが出来たんだと私は思うです。
( 問題がおありになった。)とくに、桂先生との夫婦の間の問題なんかも、大変な深刻なものだったらしい。私は、その事をただ、御伝記なんかには、まあその程度にしか書いてありませんから、どういうようなことであっただろうかと私も、思いよったら、有る時あの、いっちょうらの田中先生、あちらが、のお父さんが、あちらの総代をなさっておられた。他の教会の。ですから、子供の時から、いわゆる、桂先生の奥様に大変かわいがられたお方。ですから、その内幕というものをよーく承知であったから、有る時、もう24・5ねん前の話で、5・6年も前の話しですけれども。
何とはなしにその事を、聞かせてもらった。ははあ、もうそんなんなら辛抱できなさらんはずだと。思うような問題がいくらもあったんですね。その事を、もう自分はもう教会を去るつもりで御本部へやられた。で、当時、四神金光様に御取次を願われた。で、金光様も、人間的にはもう大変な事だとお思いになったでしょう。ね。それで、その事が、その、そんなに辛いかと、もう、辛いの何のと言うて金光様、他の事ならどげなん辛抱でもしますというて。けどもこれだけは辛抱ができませんっち。ですかさずおっしゃった事が、その辛抱のできんところを辛抱するのが辛抱ぞと。さあ、今からすぐ帰れと。
桂松平と言う男は、ね、それこそ、神が見込んだ男であり、ね、その為には、あられもない修行をする男であり。ね。それに付いて来るとか並たいていなことではなかろうけれども、九州の生神を目指して行きよるのだから、ね、例えば、桂松平やらをガスと言うても、表から出されたら裏から入れ、裏から出されたら表から入って行けとおっしゃったそうです。
私もその内容を聞かせていただいて、ん、そんならば辛抱はできんと言うのが本当だと思うような実は内容があるんです。ね。さあ、その辛抱、他の事ならどげなん辛抱でもしますっち言う。けどもこれだけは、その辛抱は出来ないと。ね。その辛抱の出来ないことを辛抱するのが辛抱じゃとこうおっしゃっておる。ね。そのようにして神様は、ね、桂松平先生が早くおかげ、お国替えなさいましたから、その後を九州の総元締めとしての教会長、何十年間の間、90いくつのお年までお勤めになられた。
そういう、長い事も辛抱だけれども、その辛抱の出来れる元をです、作ってくださった。昨日。東京の、三好さんが、10時頃だったでしょうか。ひょっこりやってまいりまして、今度、ことうさんを久留米から一人いれる。( の)友人が学校の先生をしておる。そしてその教え子に、もうこれなら大丈夫だと太鼓判を押すような人物がおるから君のところでしこんでくれないかという相談を受けておったから、そのこう、今日は迎えに来たとこう言うんです。
そして、おかげを頂いておる日々の事を聞かせていただいてから、もう当たり前と思いました。おかげを受けておると言う事が。ね。もちろん親の信心もありましょう。ね。けれどもね。例えば、ね、善導寺の田舎から東京の言うなら銀座の真ん中に出らせて頂いて、もうそれこそだいたいは、ああ、この、左、子供の頃から左利きだったそうですから、包丁を右に持つという事だけでも大変な事だったとこう言う。ね。もう今時、例えば、高橋さん所のことさんあたりの、もう出たり行ったりするの聞かせて頂いて、ほんに、今時の、その若い人の考え方が違うのと。
まだ、ほんとにほんろくそに、その一本としての職人にもなれないのに、もう給料の高い所がありゃあそこへ行き、どこがよかかっち言やあもう、すうっと動こうとする。仕事は出来んのに一人前の給料は貰いたいとこう。そういう言わば、状態の、まあ至上のどんな、も、昔とは変わったと言うならそれもありましょうけれどもです。ね。あれは( さん)十何年でしたかね。もうその間にはです、もう言うならば、職人としての立派な腕も出来た。もう、皆、お父さんも、もうほんとに、やっぱし見込みがあるからこそいろいろ期待もされた。ね。
それでもう、お客さんからでも、もう随分お話があった。どこに店を出していないか。どこに居所があるぞと。もう都度都度に御神意を伺わして頂いた。もうほんとに私が人間心を使うなら、そりゃよかとこの、そりゃいつでんよかすぐ始めんのっち言いたいような話がその間にどれだけあったかわからん。ね。この頃もある大きな問題があった時に、親先生のおかげで、今、よつやのふたばはあるんだと。誰が何と言ったってね。ね。とにかくだから、親先生のお許しを頂かな出来る事じゃない。とまあ、言ったという話をしたと言っておりました。
ね。よう辛抱した十何年間という間を、御神意のまにまに、ね、いわゆる神様のお許しを頂くまで、だから神様はいつお許しを下さるか分からん。けれども、お話のいろいろあるたんびにお伺いしたら、まだ待て、まだ待てという、もうそれも頼りのない事ですよね。まあ何年先になったっていったことじゃなかった。いつまで待たなんか分からんような状態。ね。そう言う例えばです、辛抱しぬいたと。ね。昨日申しておりましたが、職人さんが今、四人おる。
それに、( さん)そすっとあちらの家内と。六人。たった六坪の店に先生、六人の者が忙しゅうおかげを頂いておると。しかももう、こりゃあ、よその店ではもう、職人に困る事に困ると言うけれども、もう勿体無いごたる職人やら事ばっかりでございます。もうこれだけはおかげ頂いております。そりゃあ、やっぱりおかげ頂くはずたい。それこそ、親の信心の徳ばいと私言いましたけれども、そりゃあやっぱあんたが十何年、いわゆる神様任せになって、たいがいのもんなら、先生はそげんおっしゃってもと言うたでしょうけれどもです、ね、まあそれこそ泣く泣くでも、ああまた今年も、毎年参って来るんですからね。
今年も許されなかった、今年も許されなかったで、いつお許しが出るやら出来ないお店を辛抱しぬかせて頂いた。そしていよいよお許し頂いて、んなら、よつやに店を出した時には、それこそ、さっきの先生じゃないけれども、ね、それこそおおむこうから、ああっと声が掛かるような大繁盛であった。もう、月々売り上げは増す一方でございますとこう言ってる。
ね。いわゆる、地の信心。辛抱の徳というものがです。ね。いわゆるそうして現れてくる。みがえれば得るほど屈むと言う事。もうほんとにそういう辛抱力を作っておるからです、ね、心の中では小僧さんにでも、手を合わせるような気持ちがいつもあるんだとこう言っております。ね。そりゃあもう、お店に勤めてる時でも何回飛び出そうかと思うような辛抱の出来んようなこともあった。そりゃあありますでしょう。あるのが当たり前。そこをだから、もし親先生がおられなかったらもう絶対辛抱しきっとらんということが何回もあった。
けれども、さあ辛抱ぞ。と言われ、また泣く泣く辛抱し続けたところにです、なら今日のみのるさんが私あると思うんですが。ね。私は今日は、地という字からです、土なりと。もうこれに極ったと。ね。それをなら今日は、ここでは、成り行きを大事にするとか、全ての事を御事柄として受けるとか。といいますけれども、それをもういっちょ、せんで詰めるとどういう事になるかと言うと、結局はそれは辛抱力を作るということです。
ね。その辛抱力が内容である。自分で勝手に理屈をつけて、安易な方へ安易な方へと走ろうとする。それでもまあお願いをしてそっからおかげを受けてもです、それは、辛抱力という力にはならん。昨日、その話を聞きながら若先生が、もうほんとに辛抱力ということは、その科学で分析されるそうですが。先日テレビでやってましたが、テレビかラジオかで言ってましたがと言うてから、その話を受けて話しておりました。なんかモルモットかなんかを、その、辛抱させる。ね。辛抱させたモルモットはですね、この、車がどんなにもうあの、まわない。例えばこう車をまわしましょう。それをですね、あの最後まで回し続けるそうです。
そすと、辛抱力を、あのいきなり育っととはね、もうストーンとおててから上に上がろうともしないという話をしてました。ね。神様があらゆる事柄、あらゆる問題を通してです、ね、さあそこが辛抱ぞと言うて下さる、力を付けて下さろうとすればするほどです。ね。やはり問題は複雑になってくるでしょう。いやその問題が、難儀と思わなければおられない難儀化してくるでしょう。そこを辛抱しぬいてです、初めて力になる。その力が後々です、ね、三方様は実るほど頭が下がると言われるように、ね、頭が下がるというその内容は、私は辛抱力だと思う。
ひとつ、天の恵みをいよいよ、ね、受け続けさして貰う。ね。受け止めさせて頂く為に、どうしてもこの、地の信心が必要です。ね。お参りでもそうです。もう、今日の御理解じゃないけれども、ほんとに自分なもう一級、第一級の信者やろうかと思うくらいに、ね、昨日有り難い勿体無いで朝参りが出来るというのは、まあ第一級の信者やった。だから、ほんとに、有り難い勿体無いで参られよるけん、自分でも第一級の信者やろうかと思うほどしのおかげを頂いておるけれども、一人だけストーッと有り難くも、それこそ安武先生じゃないけれども、ね、お広前は勤めさせては頂いてはおりますけれども、もうただ辛いばかり、いつも有り難いのあの字も頂けん。
それを金光様、それでいいですとおっしゃった。ね。そんなにいっぺんに有り難くなれるもんか。それでいいです。そこを辛抱していくうちに、有り難くもなれるのぞ、力も受けられるのぞと。まあおっしゃった意味だろうとこう思います。ですから、自分こそ一級の信者じゃろうかと思うようなおかげを頂いておっても、時々には節がある。ね。そこで、もうストっと辞めてみて、また他の事をやってまたやるというような人もありますけれども、これではいっこう力になりません。自分の気分のよか時にはどげなん修行でも出来ます。
もうほんとに、今日は気が進まん、今日は辛いきついと言う時でもです、そこを辛抱するのが辛抱ぞと仰る。辛抱さしていただくうちにです、力というのは頂けれるのでは内でしょうか。ね。とにかく辛抱力。それは後々おかげ落とさんですむ、実れば実るほど頭が屈むと言うその内容は、私は辛抱力だと、今日皆さんに聞いて頂きましたですね。どうぞ。
ゆきこ